西漢南越王墓博物館( Xi Han Nan Yue Wang Mu Museum )
<西漢南越王墓博物館の歩き方>
西漢南越王墓博物館は、西漢(日本では前漢と呼んでいます)時代に華南地域を支配した南越国王を埋葬した墓全体を建物で覆った博物館です。
広州市解放北路沿い、越秀公園正面入り口すぐそばですのでそこを目印に向かっても良いですし、タクシーであれば殆どの運転手が場所をわかっていると思いますので、まず迷う事は無いでしょう。
尚、チケット売り場は左写真正面入り口の外、左側にありますので、チケットをまず先にお求めの上、入り口階段を上るようにして下さい。
立派な博物館に似合わない貧相なチケット売り場に、発展著しい中国のアンバランスさを感じる事が出来るでしょう?!
<西漢南越王墓博物館>
博物館は大きく分けて3つのブロックから成り立っています。
左上写真が入り口兼企画展示室で、おみやげ物などの売店もあります。尚、手荷物預け所などはありませんので、余り重い荷物をもっていかれませんよう。
この建物の正面階段を上ると中庭のようになっており、そこがお目当ての王墓遺跡です。遺跡全体を建築物で覆い、保存と展示の両立をさせています。
日本ではまず考えられないことですが、この王墓は実際に中に入ることが出来、これがこの博物館最大の特徴且つ目玉といえます。是非とも中に入って、2000年以上前の空気を味わってみてください。
この王墓展示室奥に、出土品展示室があります。
この出土展示をじっくりと見て回りますと、軽く1時間以上はかかりますので、ご関心のある方は時間に余裕をもって訪問されると良いでしょう。
出土品は質・量ともに超一級で、中国古代文明の偉大さを十分堪能できると思います。
<西漢南越王墓>
西漢南越王墓は1983年に発見、調査され、その結果これが西漢時代の南越国第二代国王の墓であることが明らかになりました。
歴史書と出土物がぴったりと一致して、被葬者が完全に特定された非常に貴重な例といえます(日本では、文字記録が日本書紀・古事記までしか遡れないため、文献史学と考古学の間で不一致事項が多く、その点、歴史書のきちんと整った矢張り中国史学とそれを支えた文明は偉大と言わざるを得ません)。
内部からは、15体の殉葬者遺骨のほか、1000点以上の出土品が発見されました。人目を惹くのは「絲縷玉衣」ですが、歴史学上の価値としては「文帝行璽」の金印と、「趙眛」の玉印がまず第一だと思います。
墓室の構造は、漢代の典型的な形状であり、墓道を下りると扉の奥には前室、その左右には西耳室と東耳室があって、前室の奥に主棺室、その左右には西側室と東側室、そして正面一番奥に後蔵室がある、十字形です。左写真は墓を上から撮影したものであり、概ね形状が理解頂けるかと思います(右側が墓道方向、手前が西耳室、左が後蔵室です)。
各室の主な機能は以下の通りです。
前室:車馬も備えた王の執務の間
西耳室:王の日用品を備えた生活の間
東耳室:礼楽器を備えた宴会の間
主棺室:言うまでも無くこの墓の主の亡骸の間
後蔵室:食器御膳を備えた食事の間
西側室:王の下僕が埋葬された控えの間
東側室:王の側室が埋葬された後宮
<南越国について>
南越国については、『史記 巻一百一十三南越尉佗列伝第五十三』に詳しい記述がありますので、概略をご紹介します。
秦は天下統一を果たすと楊越(現在の広東省周辺)を平定して、桂林・南海・象の3郡を設置し、このうち南海郡にある龍川県の県令に趙佗という人物が任用されます。
秦二世皇帝の時代に天下が乱れると、南海郡の軍事長官は自らが病気のため、趙佗を呼び南海郡の防御を依頼します。軍事長官が病死すると、趙佗は実質的に軍事長官となり、秦滅亡後に桂林郡、象郡を併合して南越国を興します。
高祖劉邦が中原で漢を興すと、国内の統一に追われて趙佗を討つことはせず、寧ろ漢高祖十一年には佗を正式に南越王とします。しかし漢呂后の時代になると南越は漢との鉄器交易を禁じられた為、佗は自らを「武王」と称して隣接する長沙国辺境を攻め、やがて漢呂后が崩御すると皇帝と全く同様の振る舞いを始めます。
漢孝文帝の時代になると漢は使者を南越へ派遣し、佗の行いを諌めます。佗は漢を恐れ、、漢に対しては臣下として南越王を称しますが、国内では引き続き武帝を称します。『史記』には趙佗が「天子に仕えるには、ただ礼さえ失する事の無いようしておけばよい(事天子期無失礼)」と語ったと伝えられています。このセリフは、何となく今のビジネス社会でも通用しそうな気がしますね。
佗が没すると、その孫の胡が南越国王となります。彼がこの博物館の墓主です。
佗は相当に長生き(後の注釈書によれば100歳まで生きたとあります)だったので、どうも佗の子供は胡の即位前に死亡したのではないかと推測されています。『史記』にも佗の子供に関する記述は見当たりません。
胡については次の<被葬者について>で詳述します。胡は佗と違って穏健派であり、隣国からの侵略には漢を頼みとし、太子の嬰斉を漢朝廷に入朝もさせます。更に自らも漢朝廷に赴き天子に挨拶をしようとしますが、これは流石に臣下から止められて思いとどまり、以後病気と称して国内に留まり、最後は病死し、文帝と諡られます。
胡の死後、太子嬰斉が漢から帰国して第三代南越王となり、太子に子供の興をたてます。漢は嬰斉に入朝を促しますが、病気を理由に赴かず、子供の次公を送ります。嬰斉は死後に明王と諡られます。
次に興が第四代南越王となります。この時代になると、漢は南越国に対して漢の諸侯と同待遇に服する事を強く求め、王もこれを了承しますが、第二代王から第三代王にわたって丞相を勤めていた呂嘉はこれに反対し、王と丞相が対立することとなります。しかし丞相の人望は厚く、王も容易に討つことは出来ずにいましたので、漢王朝はこれを好機として使者と軍勢を南越に派遣します。丞相呂嘉はここに及んで反旗を翻し、王と漢の使者を殺して明王の長男建徳を王にたてます。これが第五代かつ最後の南越王です。
漢は名将伏波将軍と大軍をもって南越国を攻め、呂嘉と建徳王は捕らえられて、南越国は五代九十三年で滅亡しました。
因みに、史記の各章最後を締める「大史公曰く」では、この南越国の変遷のさまを「成敗之転譬若糾墨(成功や失敗の変転は、糾える縄のようである)」とコメントしています。
(右写真は墓道を上から見下ろして撮影したものです)。
<被葬者について>
上で言及しましたように、この墓の被葬者は南越国第二代胡であることにはほぼ間違いありません。
行動力に富んだ初代国王趙佗、暴虐の限りを尽くしたと伝えられる三代国王趙嬰斉に比べて、趙胡は大変地味で温厚なタイプだったようです。
『史記』の彼に対する記述は200字にも満ちません。またその内容もひたすら漢王朝に怯えへつらう様子のみが強調されています。
隣国に攻めらた際は漢王朝に「貴方の臣下である南越が攻撃されています。臣下である私は敢えて兵をあげて対抗したくありませんので、詔勅を出して隣国を諌めて下さい(臣不敢興兵唯天子詔之)」とお願いし、漢が隣国の侵略軍を攻め滅ぼせば「このご恩は死んでも報いきれません(死無以報恩)」とまで謙ります。流石に王自らが漢へ赴いて感謝の意を表そうとするのは臣下に止められますが、客観的・素人目にみても南越を完全な属国にしようともくろむ漢王朝のもとに、のこのこと出かけていけばそのまま人質となって南越が滅びたであろう事は、明らかだと思われます。
『史記』ではその後仮病を使って漢へは行かず、そのまま死んだ、という記述があるのみで、諡号を文帝としたのも、つまりは「武」が無い事の裏返しであるといえます。
(左上写真は、西側室を撮影したもので、手前のガラスケースには殉葬者の遺骨が展示されています)。
<印璽について>
この西漢南越王墓の被葬者が、南越国第二代王である趙胡であることが確実視される一番の理由は、出土した印璽にあります。
「文帝行璽」はまさにその刻印の通り文帝の印を表しています。文帝とは『史記』に記述されている通り、南越国の第二代国王趙胡の諡号です。
『史記』によれば、第三代国王趙嬰斉は、漢を恐れて趙胡の死後、前帝と武帝の印璽を隠した、とあります(嬰斉代立即蔵先武帝璽⇒前帝である武帝、と解釈することも出来ます)。原書を当たっていませんが、『漢書』にはもっと明確に、武帝と文帝の印璽を隠したとの記載があるようです(これについては、『史記』、『漢書』ともに同じ原典からの転載で、『史記』が「文帝」を省略若しくは誤転記という説が一般的なようです)。
この時、胡の印はこの墓所に隠したのかもしれませんし、文帝行璽とは別の皇帝印があったのかもしれませんし、真実は今となってはわかりませんが、少なくともこの墓の被葬者が文帝、即ち趙胡であることは間違いありません(右上写真は印璽の他、出土品を展示している展示館です)。
尚、印璽については、中国皇帝の支配体型を示す大まかなルールがあったとされており、例えば朝貢する辺境の王に大しては、有名な「漢倭奴国王」のように、漢帝国に所属することを示す「漢」を配置することが多いのですが、この王墓から発掘された印璽には「漢」の文字が存在しないことから、南越国が漢に服従せず、少なくとも南越国内では「皇帝」を名乗り、あたかも漢の皇帝と同じ様に振舞っていた事の証明であるとも考えられています。
全くの余談ですが、日本では中国風の印璽の用法を誤って示している教科書などが多いので注意して下さい。漢倭奴国王印璽を教科書などの写真で見たことのある方は多いと思いますが、中国の印璽は字の部分が掘り込まれていますので、このまま朱肉を付けて押すと字の部分が白抜きになって印影が写ります。この印影を掲載している教科書も多いのですが、これは明確に用法の誤りです。
古代中国の印璽はインクをつけて押すのではなく、重要書類を泥(粘土)で封をし(これを封泥といいます)、この封の上に印を押すことで、印を押した人の認めた公式文書を意味しています。封泥にこの印を押すと字の部分が手前に浮かび上がります。つまり、正しい印影は、矢張り字の部分が強調される形であって、インクをつけて字を白抜きにするのは誤りなのです。
今でもときどき古代中国印をこのように展示するのを日本では見かけますので、見つけたら「あっ、使い方が違う」とほくそ笑んで下さい。
<おまけ:サイドストーリー>
ここに出てくる漢の使者は、陸賈という人物です。『南越列伝』のみを読みますと、豪傑な趙佗が陸賈が来ただけですっかり恐れ入ってしまう様子のみが描かれ些か唐突な感が否めませんが、これには前振りがあります。
『史記 レキ(麗におおざと)生・陸賈列伝 第三十七』に陸賈について詳しい記述があり、趙佗も登場しますので簡単にご紹介します。
陸賈は楚の出身で途中から漢の高祖劉邦に従い、やがて重用されるようになります。高祖は陸賈に南越へ赴き尉他(陸賈列伝では、趙佗を尉他と書いていますが、南越王となっていること、佗と他は発音が同じですので、同一人物です)に印を賜い、南越王として封じるよう指示しました。
陸賈が初めて趙佗に面会した際の趙佗の様子を、『史記』では「尉他タイ(鬼に隹)結箕倨見陸賈」と表現しています。「タイ(鬼に隹)結」の解釈はいろいろとあるようですが、タイ(鬼に隹)の字を椎(=槌)として、この形状の髪の結い方を表現しており、「箕倨」は「箕倨(踞)而座」、即ち足を投げ出して礼を失して座る様子ですので、豪快というか漢民族からみれば南蛮(日本語と異なりそのまま南方の野蛮人の意)そのものだったようです。
このような無礼な出迎えに対して、陸賈は負けずに、以下のように趙佗を説得します。
「貴殿は中国人であり一族の墓も真定(河北省)にあるのに、天に反して取るに足りないような越のために天子(皇帝)に逆らって故国や祖先を敵に回しています。漢が全国を制覇したのは天意です。あなたは南越王となりながら秦の暴虐を諌めるのにも協力せず、漢は滅ぼしたいと思っていますが、天子は人民が苦しむので敢えて思いとどまっています。天子はあなたに印を与えて通商をしようとされているのですから、ここは臣下の礼をもって対応すべきでしょう。南越はまだ出来て間もない弱小国です。もし漢が攻めてきたら、越の民は貴殿を殺して漢に従うことでしょう。」
これを聞いて趙佗も恐れ入り、漢の臣下となることを認め、かつ陸賈を大いに気に入って数ヶ月引き止めた、と記述されています。また帰り際には財宝まで与えたようです。
これが、漢高祖十一年の南越王を漢が正式に任命した件です。
この経緯があり、孝文帝の時代、再び誰かを南越に派遣する話が出ると、前回も南越へ赴いて交渉を成功させた陸賈が指名され、今回も成功を収めることになるのです。
<参考文献>
『史記 下』、郭逸・郭曼注釈、上海古籍出版社、1997年。
『史記 下』、野口定男注釈、平凡社、1972年。
『中国・南越王の至宝』、西漢南越王墓博物館、1996年。
『西漢南越王墓博物館パンフレット』、西漢南越王墓博物館、1997年。
『中国古代文明の謎』、工藤元男、光文社文庫、1988年。